拙僧の個人ページ「説法コーナー」へようこそ。と、言いましても何も説教しようなどとは思ってはいません。このページは皆さんとともに企画して楽しい事柄を掲載できればと考えています。
さて、今回は「コーナー2」に続いて私どもの倶楽部の歴史をたどる「あの時、この時」天下の絶景・上高地へ・・・・からをお送りいたします。
上高地、ウエストン伯が発見したと聞いている。この地へ出かける事になったのは倶楽部結成早々に入部した大治町のS氏の勧めがあったからだ。
S氏は現在も我が倶楽部の知恵袋として活躍している。最初に上高地へ行ったのは1976年6月。メグロK2-500サイドカーを先頭に総勢5台のバイクが開田村地蔵峠〜野麦峠〜奈川村〜上高地と走った。
釜トンネルを抜けて見た前穂高の雪を抱いた素晴らしい眺め。梓川の水の冷たさ清らかさが印象に残っている。小梨平キャンプ場でのバーベキューは楽しく、見上げる満天の星は美しかった。
今では一般車両は入れないが、10数回も通った上高地の魅力は現在も尽きない。
野麦峠のお助け小屋で休憩し、長野県側に下った所で工事中に出合う。
箱板一つを橋にして渡ったあの恐怖を私は覚えている。この頃は全線地道で拳や頭位の石がゴロゴロしていた。
1976年6月、翌日は早朝から雷を伴う土砂降り。下山しないと通行止めになるとの係員の指示で慌てて帰路に着いた。
この頃は、雨の走行も気にならなかった。
1977年7月、二回目の上高地。午前3時に名古屋を出発し、中津川の元越付近で雨に合うも小梨平キャンプ場へ電話で天気を確認。上高地は晴れ、と伝えると「うおぉぉ」と皆から歓声が挙がったのを覚えている。
翌日は安房峠にて会長のサイドカーがガードレールに突っ込むが、ヘッドライトの破損のみで軽傷に見えたが・・・・・。
乗鞍へは濃霧で諦め、高山廻りで帰路に着いた。
駐車場からリヤカーで荷物を運ぶ姿が皆さん妙に似合っていた。9人分の荷物は重い。「さあ、もう少しだでよぉ」
上松町寝覚めの床、R19沿いの「越前屋」で蕎麦を食べるのが当時の恒例だった。食べた後は上高地へ一直線でした。
1977年は7月と9月に上高地に出かけた。
右の写真は9月のもので、夏と違い人もまばらで静かで良い。やはり上高地は残雪のある5〜6月か紅葉の10月だろう。
夏以外のキャンプは結構冷える。寒さ対策を忘れずに。この後は年二回は出かける程上高地に魅せられていた。
サイドカーをクリックして見て。
中央道・恵那峡SAに集合し、パッセンジャーに鳴海のK氏を乗せてのドライビングとなる。
小梨平キャンプ場では寒さ対策に巻きを燃やして暖をを取った。
ここは直火OKである。巻きの火は雰囲気があります。
大正池から前穂高を望む。キャンプは夏よりもシーズンオフのがいい。
誰にも邪魔されず、星空の下で深夜までの語らいは楽しいの一言である。
■上高地、3000m級の山々に囲まれた北アルプス。ウエストンが日本アルプスとして世界に紹介したが、私達には北アルプス・・・・と、言った方が分かりやすい。
「アルプスに響け乾杯の声」との題名で雑誌にも掲載された我が倶楽部の上高地への旅。鳴海町のK氏が最初の頃は四輪車でサポートしてくれて大いに助かった。中盤からはサイドカーを中心に荷物を運び、冷えたビールや美味しい焼き肉には事欠かなかった。当時も、土日や春夏の学校の休日と冬季はマイカーは規制されていた。私達は運良く平日に活動できたので一般の方達よりも行ったと思う。本当に素晴らしい体験です。次回は、上高地続編を掲載します。